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なんやかんやてんやわんや

大目に見て下さい

鬼優しいって優しいの?鬼なの?どっちなの?

今日電車に乗っている時に、高校生ぐらいの若い女の子の会話が聞こえてきた。

 

「○○君ってさ、ほんと超やさしいよね。もう鬼、鬼優しい!」

 

「ほんとそうだよねー!もうまじで鬼優しくてヤバイ!」

 

まぁ言いたいことはわかる。

 

とても

すごく

非常に

大変

ものすごく

極めて

この上なく

滅茶苦茶

世界一

 

どの程度なのかを表す程度副詞(あんまりよくわかっていない)はいっぱいあるけど、彼女らの中で最上級を表すのは「鬼」ってことなんだろう。

 

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つまりこの○○君の優しさは、彼女らの中で一般のそれとは比べ物にならないほどであったが故に、最上級の「鬼」が使われたのだろう。あっぱれだ○○君。

 

しかし彼女らの○○君への称賛は続く。

 

「もうほんと鬼の優しさ!」

「鬼みたいに優しい!むしろ鬼より優しい!」

「まるで鬼!まさに鬼!リアル鬼!」

 

ちょっと待て、後半ただの鬼やんけ。リアル鬼ってなんやねん。優しさはどこへ。って突っ込みたくなったってかちょっと吹き出しそうになった。

 

リアル鬼ってなんやねん。

 

いやこれ盛りすぎだしむしろ褒めすぎて軽く馬鹿にしているように聞こえますが。

 

そもそもここまでは優しさの程度を表すため、優しさを修飾するために「鬼」という言葉を使っていた。

 

しかし後半では鬼みたいに、まるで鬼、と比喩的な使い方をしている。

 

鬼と言われて想像するのは

 

強い

怖い

恐ろしい

冷酷

残忍

 

など一般的に恐ろしいイメージであろう。

にもかかわらず鬼のように優しいという使い方だと、まるで鬼が極めて優しいものということになる。

 

天使のような笑顔

岩みたいに硬い

人生とは旅のようなものだ

 

ごく自然だ。これは喩えて置き換えているから成立しているのであって、喩えられないものを出すと途端に違和感が生まれる。

 

マグマのように冷たい

鋼鉄のように柔らかい

刑務所生活は天国のようなものだ

 

どうだろうか?矛盾、違和感しか感じない。

鬼のように優しいもこれらと同様に本来なら成立しないはずだ。

 

しかし彼女らはなんの違和感も感じない、むしろその「鬼」の使い方が当たり前であるかのようにごく自然に会話を続けている。

 

まさかこれは彼女らが間違った使い方をしているのではなく、彼女らの中では鬼は優しいものという認識なのではないだろうか?という疑問が僕の頭に浮かんだ。

 

もしそうならば後半の

 

むしろ鬼より優しい!リアル鬼!」

 

にも説明がつくし納得がいく。

 

鬼が恐れらていたのは過去のこと。鬼は本当は優しいものなんだよ。

 

現代の若者は幼い時にそう教えられたのかもしれない。

 

鬼が怖いという考え方は、後に差別意識を生む可能性も孕んでいる前時代的な考えで、

今の時代にはそぐわないのかも知れない。

 

今を生きているこの子たちには鬼も人と同じような優しさを持ち合わせているんだ、むしろとっても優しい存在なんだよ、みんな仲間なんだ。

 

この考え方が現代の若者である彼女らの心にはあるのかもしれない。

 

 

などということは、決してないだろう。

 

電車を降りた後の僕はきっと、鬼ように優しい顔をしていたに違いない。

 

裏表のある人間ってなに。そもそも自分って何?

僕はよく「裏表のある人間」「二重人格」「二面性がある」とか言われる。うるせぇほっとけ。

 

人からそんなこと言われて昔はちょっとそれで悩んだりしたけど、今となってはそんなもん普通だろ、って思ってる。

 

裏とか表とか勝手に決めつけんな

 そもそも僕自身が

 

よーし今日は裏の顔でいくか~

 

とか

 

この人には表の顔見せても大丈夫だな

 

とか意識してないし勝手に決めんなって思う。

 

仲の良い友達への接し方とそこまで仲良くない人、会社の人とは接し方変わるのなんか当然だと思う。

 

それを

 

あ、なんか普段と違う、本当は裏表ある性格なんだ

 

とか言われてもね。

 

いや、どっちも僕だしどっちも表。隠してるわけでもないけど全部見せてるわけでもないし、見えてないだけでしょ?

他人の一部分だけを見て「こういう人間だ」って勝手に決めつけてるだけじゃん。

 

自分の中身を全部見せないといけないのか

なわけない。いや、それが世間一般でいう「裏表のない人」なのかもしれないし、それが誠実なのかもしれない。

 

けど、そんなことする必要は必ずしもないんじゃないか。

例えば僕は普段はおとなしいし、失礼のないように人と接しようとか思っているから、特に悪いやつだと思われていないけど(全然そんなことないかも)仲のいい友達なんかといるときは全然違う。(あ、周りに迷惑がかかるような感じではないっス)

これは僕自身自覚しているし、今となってはどっちも僕っスってな感じなんだけど、これを僕の事を良く知らない人が目撃したり知ったりしたら

 

うわぁなんかあいつ普段と全然違うじゃん、なんなのアレ。

 

ってなるわけよ。はは、やかましわ。

 

いや、別にどっちも「普段の僕」ですよっと。あらよっと。

 

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いやいや自己の認識じゃなくて第三者からどう認識されるかだろ

まぁそれもわかる。

むしろ自分でさえ自分自身のことがよくわからないとか全然あるしね。

 

自慢じゃないけど27年間自分やってきてるけどいまいち自分ってどういう人間か分からない時だってあるしね。

 

人から「お前はこういう人間だ」とか言われて

 

うわっ、僕ってこんな人間だったんだ!

 

とか思う時もあるけど、それって「その人から見えた自分」なだけであって、別の人から見たらまた違う自分なんだよ。

 

で、それもやっぱり「自分が思う自分」とはまた違うわけで、結局「他人から見た自分」なんてあてにならない。

 

本当の自分ってなに

なんだろね。

書いていてよくわかんなくなってきた。

 

こんなありふれた悩みなんて先人たちがみんな経験してきたことだから、思想家や文化人や偉人とか専門家とかとにかくいろんな人が本にしてきているだろう。

 

そんなの読めばすっきりするのかもしれないけど、あいにく僕はまだその類の本はよんでないんだな、すまねぇ偉大な先人たち。

 

「自分が思う自分」っていうのも結局「自分自身がこうであろう、こうでありたい」という願望というか枠に当てはめただけの理想、妄想なのかもしれない。

 

例えば自分では虫も殺さないような平和主義者だと思っていたのに、人をぶん殴ってみたら思いのほか気分が高まった、気持ちよかった、なんてこともあるかも。(僕じゃねぇ)

 

あれ?今までの自分ってなんだったの?これが本当の自分?こんな残酷な性格だったの?

 

とか

 

人前に出るのがすげぇ恥ずかしかったけど、大勢の前でスピーチすることになって、いざやってみたら大成功でめちゃくちゃ楽しかった。以来人前に出ることが苦じゃなくなったしむしろ好きになった、とかね。

 

つまるところ自分自身でも気づかない部分があったり、何かきっかけがあったり生きているうちに自分なんか全然変わっていく。

 

ピーマンが食べられなかった昨日の自分と、食べられるようになった今日の自分はもう違う自分だ。

 

人は変化して生きていくんだ。

 

だから二面性どころじゃない、三面四面もっともっとある。

 

そんな自分自身でもまだわからない部分、変わっていく自分っていうのも全部含めて「自分」なんだから細かいこと気にせずに生きていこうよって思うわけ。

 

そんなもんだから人がどうこう言おうが勝手に決めつけんな、それを真に受けるなっていうこと。

 

あーあの人にはそう見えているんだー

ぐらいなもんでいいと思うよ。

 

ってなんかこれ読んで自分って言葉がいっぱい出てきたからこんなこと書いてみた。

 

なんかまとまりないけど終わり!